第8話 密貿易の恩義で、日本人が助けられた話   

(状況説明: 南方や太平洋で消耗戦を続ける日本軍にとっての急務は、物資の確保だった。一方、蒋介石の国民党軍(重慶軍)は米軍から物資と武器の援助を受けていた。中国での物資確保には、重慶軍と交渉する必要があった。その可能性を探ることを買って出た中谷さんは、両軍の二重スパイから、重慶軍第7軍の厳少佐を紹介される。中谷さんと気が会った厳少佐は統制品の密貿易という任務を引き受けてくれる事になった……)
 

 第7軍はベトナム国境に近い広西省の山岳民族の部隊で、中国軍の中で一番強いと言われていた。漢民族とは違い精悍な容貌。厳少佐も背が高く浅黒くて、ギョロ目だった。彼の叔父が司令官だった為、話しは早く、彼が南京・上海から、沢山のお土産を持って帰ると、じきに、淮河交易が盛んになった。

 商人達は上流から筏を組んで蚌埠へ行き、帰りは蒸気船や陸路を利用した。

 行きは渋紙を貼った大きな竹籠の底に旧銅貨を隠し、その上に牛脂を詰めた。

 日本軍にとって、古い銅貨は弾丸の薬莢に、牛脂はニトログリセリン、つまりダイナマイトの原料になる。筏の松材も、海岸の陣地構築の為に使われた。米軍の上陸なしに敗戦を迎えたから、結局、役には立たなかったが。

 商人達は、帰りは塩、砂糖、マッチ、高級布地、乾電池など、金儲けのできる貴重なヤミ物資で、儲けは何倍にもなった。彼らは淮河の往復で、大きく儲けた。いずれも統制品だが、両軍の了解の元で平穏に商売は展開した。

  こうして、これで両軍は終戦まで血を流すこともなかった上、第7軍幹部はかなりの儲けも得ることができた。

 連携プレイが大成功したこの工作は、桜庭機関長とニ村総務と私の三人だけが知っていた。

 桜庭機関長は、その後すぐ、旅団長として、湖南省方面に転任となった。一方、私は、厳少佐と一緒に第7軍を訪問しようとしていた矢先、上司の邪魔によって、12月、合肥に転勤させられてしまった。

 しかし、そのときすでに、厳彩光少佐とはすでに親密な友情が生まれていた。少佐と言っても彼は、当時私と同じ24歳である。敗戦後、蚌埠に彼を訪ねた時、私は第7軍首脳達の大歓迎を受けた。

 彼らは二村総務と私のために宴会を開いてくれた。呼ばれた中国芸者のなかには、蚌埠の特務機関となじみの者もおり、私の顔を見て、こう言った。

「あら、まだ中国にいたの?」

 東京の家族からの連絡が途絶えて久しかったので、皆、空襲で焼かれたとばかり思っていた私は、このまま中国に暮らしていこうと考えていた。

「中国人になりすまして残留するつもりだ」

 私がそう言うと、彼らは拳銃や腕時計などを法外な値で買い取ってくれた。淮河交易で大儲けできたことに対しての恩義だった。それは1年間暮らせるほどの大金だった。

 終戦当日、厳少佐が蚌埠にいたおかげで、その地域の日本軍の武装解除がとても穏やかに進行した。

 第7軍の監視所は、丘の上の蚌埠神社に設置された。日本軍収容所の門衛には日本兵が立った。

 重慶側が一般兵士を街に入れないよう配慮してくれたので、明るく平穏の内に、終戦処理は行われた。

 2、300名の日本人居留民も、混乱なく上海に向かうことができ、日本軍の各部隊も整然と復員できたのである。
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# by 1937-1945 | 2007-08-19 12:52 | 第8話 密貿易の恩義と友情