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第10話 修水渡河戦 日本軍、毒ガス使用   


 現地で除隊後、特務機関に採用された新入り者の中で一番年長だったのは、田中軍曹であった。物静かで明るく、誰にも好かれる彼は、新婚早々に残してきた妻を早く呼び寄せて、家族宿舎に入ることを望んでいた。

 そんな彼の経験談で印象に残る話がある。修水渡河戦の毒ガス使用である。

 川向こうに布陣する敵を前にして川を渡るのは、敵の攻撃を真っ向から受けるため、犠牲が多くなる。そこでガスと煙幕が用いられた。野砲でガス弾を打ち込み、しばらく時間を措いて煙幕に隠れて渡河した彼が見たのは、刺激臭の中、夢遊病者のように茫然と立ちすくむ数名の敵兵であったという。

 修水渡河戦以外、日本がガス弾を使用した話を聞かない。味方に被害が出ることを恐れたのではないだろうか。

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追記)

9月2日のNHK教育テレビETV特集「裁かれなかった毒ガス作戦」が、日中戦争中の日本軍による毒ガス使用の実態について、かなり詳しく説明をしていました。日本軍は、中国大陸で毒ガスを多用していたのです。

蒋介石の中国国民党に対する作戦として、呼吸器に影響を及ぼす”アカ筒”と呼ばれる毒ガスが、日中戦争が開始して間もない1938年5月に森田支隊が安徽省固鎮で、1939年に中谷さんが聞いた修水渡河戦で使用され、その後宜昌では体が腐るマスタードガスが使用されました。マスタードガスを使用するに当たっては、すでに731部隊が実験を済ませていました。

また、1942年頃には毒ガス使用はピークに達しており、毛沢東の共産党八路軍に対しては1942年5月に北坦村の防空豪(地下道)にアカ筒が投げ入れられ、800名以上の方が亡くなり、今も毎年慰霊祭が行われているそうです。

特務機関で普通の兵士が知りえない多くの情報に接していた中谷さんが修水渡河戦以外に、あまり毒ガス使用を耳にしなかったということは、毒ガスの使用が、秘匿された作戦であったことが想像できます。1899年のハーグ宣言、1907年のハーグ陸戦条約、1919年のベルサイユ条約で毒ガスの使用が禁止されていたからです。1942年には、日本軍に対して米軍が毒ガスで報復する可能性があると恐れた東条英機は、毒ガスを使用しない方向に指揮したとのこと。

しかし番組によると、米軍は蒋介石の国民党から日本軍の毒ガス使用の証拠写真や情報を多数乳していたにも関わらず、東京裁判では日本軍の毒ガス使用について、アイゼンハワーがキーナン首席検事に日本軍の毒ガス使用の免責を求めたために、結局毒ガスについての罪は問われなかったそうです。米軍は将来の戦争で毒ガス使用をする考えがあったため、日本軍の毒ガス使用を免責にしたということです。 (山上郁海)
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by 1937-1945 | 2007-08-25 15:03 | 第10話 修水渡河戦

第9話 佐藤元上等兵の悔恨   


 蚌埠(バンプー)特務機関には、作戦部隊を現地除隊して軍属として採用された数名の職員がいた。元下士官が多かったが、皆、高学歴の常識人だった。

 その一人、佐藤さんは明るく温厚な人柄だったが、酒好きで、泣き上戸であった。

 特務機関に入る前、彼は漢口(ハンコウ)攻略に向かう部隊に配属されていた。その間に遭遇した虐殺現場の残酷場面も胸にこたえていたようだが、話の最後、死んだ戦友に対する罪悪感に耐えられずに泣き出すのが常だった。

 酔うたび彼は、こんな悔恨談を語りながら泣き出した。

 戦いを繰り返しながら漢口へ向かう途中、補給が途絶え、飯蓋半分の飯で二日間食い継いだ時のこと。畑の人参、大根等、手当たりしだい口にしながらの行軍中、一時間の大休止をすると号令がかかり、彼は道端に腰をおろして飯盒に残った最後の飯を食べ始めた。

 その時、隣に腰をおろした戦友が力のない声を出して「うまそうだな」と言った。この戦友の飯盒はすでに空だったのだろう。下痢でもしたのか、やせ細った眼はうつろだった。

 しかし彼に背を向けて、佐藤上等兵はわずかに残してあった貴重な飯を口に運んだ。そして、束の間の眠りに入った。

「出発」の号令に目を覚ますと、隣に寝ていた戦友はよほど疲れているのか、起きる気配がない。「起きろ」と呼んで覗き込むと、半開きになった眼は反応を示さなかった。死んでいたのだ。

 佐藤さんは、酔ってその話をしては、自分を責めて泣いた。

「あの時、ひと口の飯を分けてやらなかった自分が情けない。結局彼が死んだとしても、こんなに自分を責めないですんだのに」、と。

 不潔な水を飲んで下痢をする患者は多かった。炎天下、水不足のまま行軍すると、脱水状態で死者が出た。わたしもその現場を見たことがある。亡くなったのは年配の召集兵だった。”靖国の神”の中には、こんな哀れな兵士もいる。

 
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by 1937-1945 | 2007-08-23 21:47 | 第9話 佐藤元上等兵の侮恨

第8話 密貿易の恩義で、日本人が助けられた話   

(状況説明: 南方や太平洋で消耗戦を続ける日本軍にとっての急務は、物資の確保だった。一方、蒋介石の国民党軍(重慶軍)は米軍から物資と武器の援助を受けていた。中国での物資確保には、重慶軍と交渉する必要があった。その可能性を探ることを買って出た中谷さんは、両軍の二重スパイから、重慶軍第7軍の厳少佐を紹介される。中谷さんと気が会った厳少佐は統制品の密貿易という任務を引き受けてくれる事になった……)
 

 第7軍はベトナム国境に近い広西省の山岳民族の部隊で、中国軍の中で一番強いと言われていた。漢民族とは違い精悍な容貌。厳少佐も背が高く浅黒くて、ギョロ目だった。彼の叔父が司令官だった為、話しは早く、彼が南京・上海から、沢山のお土産を持って帰ると、じきに、淮河交易が盛んになった。

 商人達は上流から筏を組んで蚌埠へ行き、帰りは蒸気船や陸路を利用した。

 行きは渋紙を貼った大きな竹籠の底に旧銅貨を隠し、その上に牛脂を詰めた。

 日本軍にとって、古い銅貨は弾丸の薬莢に、牛脂はニトログリセリン、つまりダイナマイトの原料になる。筏の松材も、海岸の陣地構築の為に使われた。米軍の上陸なしに敗戦を迎えたから、結局、役には立たなかったが。

 商人達は、帰りは塩、砂糖、マッチ、高級布地、乾電池など、金儲けのできる貴重なヤミ物資で、儲けは何倍にもなった。彼らは淮河の往復で、大きく儲けた。いずれも統制品だが、両軍の了解の元で平穏に商売は展開した。

  こうして、これで両軍は終戦まで血を流すこともなかった上、第7軍幹部はかなりの儲けも得ることができた。

 連携プレイが大成功したこの工作は、桜庭機関長とニ村総務と私の三人だけが知っていた。

 桜庭機関長は、その後すぐ、旅団長として、湖南省方面に転任となった。一方、私は、厳少佐と一緒に第7軍を訪問しようとしていた矢先、上司の邪魔によって、12月、合肥に転勤させられてしまった。

 しかし、そのときすでに、厳彩光少佐とはすでに親密な友情が生まれていた。少佐と言っても彼は、当時私と同じ24歳である。敗戦後、蚌埠に彼を訪ねた時、私は第7軍首脳達の大歓迎を受けた。

 彼らは二村総務と私のために宴会を開いてくれた。呼ばれた中国芸者のなかには、蚌埠の特務機関となじみの者もおり、私の顔を見て、こう言った。

「あら、まだ中国にいたの?」

 東京の家族からの連絡が途絶えて久しかったので、皆、空襲で焼かれたとばかり思っていた私は、このまま中国に暮らしていこうと考えていた。

「中国人になりすまして残留するつもりだ」

 私がそう言うと、彼らは拳銃や腕時計などを法外な値で買い取ってくれた。淮河交易で大儲けできたことに対しての恩義だった。それは1年間暮らせるほどの大金だった。

 終戦当日、厳少佐が蚌埠にいたおかげで、その地域の日本軍の武装解除がとても穏やかに進行した。

 第7軍の監視所は、丘の上の蚌埠神社に設置された。日本軍収容所の門衛には日本兵が立った。

 重慶側が一般兵士を街に入れないよう配慮してくれたので、明るく平穏の内に、終戦処理は行われた。

 2、300名の日本人居留民も、混乱なく上海に向かうことができ、日本軍の各部隊も整然と復員できたのである。
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by 1937-1945 | 2007-08-19 12:52 | 第8話 密貿易の恩義と友情

第7話 敵軍・厳少佐との出会い   


 蚌埠特務機関に復帰した私は、昭和19年春、対峙する敵、重慶軍第10戦区第7軍の情報を得る為に、「寿県に拠点を持ちたい」と上司のP情報主任に提案した。

 敵側に対する米軍の支援の状況、米軍の飛行場に関する情報等を得たかったのだが、「無駄だ」の一言で片付けられてしまった。

 そこで桜庭機関長に直訴したところ、「良かろう、やって見ろ。責任は俺が取る」と言ってくれた。
 P情報主任はさぞ不愉快だったことだろう。
 
 桜庭機関長は弘前出身の温厚な人物で、敗戦後、旅団長として戦争犯罪人容疑を受け収容されたが、彼の善行を申したてる中国人証人が多く、将官としてはただ一人無罪となって帰国した。

 彼の腹心、ニ村総務は、会津若松出身。弁舌鋭い熱血漢で、酒豪。
 二人は信頼厚い名コンビだった。

 桜庭機関長らの支持を得て、その年の秋、私は一人で寿県に赴任した。「昭和通商」という、得体の知れない会社の出張所に一室を借りて拠点とした。
(昭和通商は陸軍中野学校のダミー会社だったのではないかと思っている)

 そんな折、ニ村総務が「厳竹坡」という青年を紹介してよこした。

 彼が二重スパイである事を承知の上で、私は接触を続けていた。

 ある日、現地の商人の家で開いた宴会の席で、厳竹坡は、わたしと第7軍参謀「厳彩光」少佐を引き合わせた。

 厳少佐は日本軍を探る為潜入して来たスパイなのだが、突然、厳竹坡から

「この席に日本人が一人いるんだよ。誰だか当ててごらん」と言われ、顔色を変えて見回した。
 
 しかし分からない。

「私だ。お近づきのしるしに乾杯」と私が近づくと、彼は驚きを隠さなかった。

 東洋鬼(トンヤングイ)とか鬼子(グイズ)とばかり聞かされていた、恐ろしい日本人に初めて会ってみれば、自分たちと同じ人間に見え、話しが通じることに驚いたと言う。

 厳少佐は桂林の中学を出たと聞いていたので、「胡蘭成先生を知っているか?」と訊いて見たところ、「私の恩師をどうして知っているのだ?」と、彼は驚いた顔で聞き返した。

 桂林中学の教師をしていた胡蘭成は、南京で雑誌「苦竹」を出版した人物でもあり、歯にきぬ着せぬ鋭い文章で重慶と南京の両政府を批判していた。そのため、「苦竹」は第二巻まで出たところで、発行禁止処分になってしまったのだ。私はそれを読んでいた。

 私は厳参謀に、蚌埠に行ってニ村総務に会うように薦めた。
 
 対米戦をひかえていた我々の目的は、第7軍の内情を密かに探り、淮河上流から物資を買いつけることにあった。

 私を信用してくれた厳参謀をニ村総務に紹介した。厳少佐が希望する通り、ニ村総務は南京・上海の旅行をさせた。

 厳少佐は南京で胡蘭成先生を探したが、見つからなかったそうだ。
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by 1937-1945 | 2007-08-17 09:47 | 第7話 敵軍・厳少佐との出会い

第6話 南京中央大学に失望   


 昭和17年9月、私は一時退職して、国立南京中央大学に入学した。目的は中国語をもっと深く知り、志ある中国の青年たちと知り合う事にあった。

 しかし夢は破れた。

 国立南京中央大学は、アメリカ系の金陵大学を接収した後に南京政府が作った大学で、校舎は立派だが教授陣はいい加減だった。北京語がまるで喋れず、広東語と英語で講義してしまう女性教授までいた。

 生徒も政府高官や金持ちの子弟ばかりで、志もなにもないグータラな男がほとんどだった。
 論語の現代語訳の試験などは、日本人の私の方が上位になる有様で、しばしば教授達を嘆かせていた。

 翌年の夏休みに、一ヶ月間、日本に帰った。

 家族とゆっくりしたり、たまたま蚌埠特務機関でお世話になった渋谷さんが、病気療養で一時帰郷していたのを、山形に訪ねたりした。

 8月末、南京に戻ったが、総司令部報道部に呼ばれ、大学をやめて再び働くことになる。既に戦局は悪化の一途をたどっていた。

 結局私は、昭和19年初頭 蚌埠特務機関に復帰したのである。
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by 1937-1945 | 2007-08-17 09:32 | 第6話 南京中央大学に失望

第5話 心優しい反戦論者 小堺兵長の死   


 太平洋戦争開戦直後の昭和17年初頭、中国有数の産炭地、淮南炭鉱の大通(ダートン)に、特務機関淮南班が設営され、班長以下3名が派遣された。私もその一員であった。昭和15年に設営した淮南班は、その後、一時撤収していた。

 日本軍が占領した後、軍の委託を受けた三井石炭鉱業が炭鉱の運営に当たり、鉱長以下多くの社員が駐在し、日本建築の社宅で暮らしていた。

 特務班もその近くの建物を改築して使うことになった。その完成までは警備隊本部に間借りしていた為、本部の兵隊達とも親しくなっていた。

 任務上も関係の深かった宣伝班に、小堺という上等兵がいた。一見してインテリとわかる彼は、東京帝国大学出身の法学士であった。卒業後、内閣情報局に勤めていたと言う。

 政府の中枢に勤める者が軍隊に召集される筈はないのだが、彼は召集されると一兵卒に甘んじて、幹部候補生にすらなっていなかった。よほどの思想問題があったに違いないが、問いただすことは出来なかった。

 彼は、見るからに温厚で、およそ軍国主義とは無縁な人物だった。おそらく、反戦的な言動が懲罰の対象になり排除されたのであろう。軍隊では彼のような学士様が一兵卒でいると、陰湿なイジメにあうのが常であったが、宣伝班は旧制中学卒業以上の比較的高学歴の者ばかりだったから、彼はイジメられてはいないようだった。それでもやはり軍隊になじめない異質の存在に見えた。

 我々が新しい建物に移ると、彼もまた、日曜毎に特務機関に遊びにくるようになった。早稲田大学出身の徳渕班長と話しが合い、我々と一緒に楽しく昼飯を食べた。隊内のアルミの食器と違い、日本の茶碗で食べる畳の上での御飯が嬉しくて、ときおり涙ぐむのだった。

 我々は小堺上等兵と、政治経済、文学、哲学など、高レベルの話しを楽しみ、日中戦争批判も盛んに語り合った。もの静かな人だが、自分を曲げない強い意思をにじませていた。

「娘の写真が届きました。見て下さい」

 ある日、彼は嬉しそうに、封筒から一枚の写真を取り出した。公園の芝生に座った美しい奥さんとニコニコ笑う可愛い女の子が写っていた。

「今年四つになったんです。赤ん坊の時しか抱いてやった事がないんですよ。早く会いたいです」

と写真に頬ずりして抱きしめた。

 休日毎に、自由な雰囲気の特務機関に来ては、気楽に話しをしながら茶碗でご飯を食べるのが、彼には無上の幸せだったようだ。私達も彼の来訪を楽しみにしていた。

 その年の夏、私は希望していた国立南京中央大学に入学を許され、淮南を離れた。
 一年半後、蚌埠(バンプー)の本部に復帰した私は、淮南の同僚から、「小堺上等兵が兵長に昇進した」と聞いてほっとしたものだ、万年上等兵でなくて良かったと。

 その後、蚌埠の駅頭で、偶然、淮南の宣伝班にいた伍長に出会ったとき、「小堺兵長は元気ですか」と訊ねた。返って来た言葉に私は息を呑んだ。

「小堺は伍長になって(戦死者は一階級上がる)、靖国神社に行きました……。討伐で大した戦闘じゃなかったのですが、彼一人だけが頭をやられて、即死でした。可哀想な事をしました」
 
 私は呆然となった。あれほど中国人に優しく接し、軍隊になじめなかった男が、何故真っ先に中国軍の弾に当たってしまったのか。

「中国人は可哀想だ」といつも言っていた優しい男が、二度と妻子に会えなかったなんて。思い出すのも辛い。

 もしも彼が長いものに巻かれて信念を曲げ、軍事体制に従っていたならば、エリートのまま、前線に送られることは無かったはず。信念を曲げず妻子を残して散った彼の無念さは、いかばかりか。彼は靖国の神になんかなってはいない。絶対になってはいない。

 残された奥さんは「名誉の戦死」だとか「靖国の神」だとか言われて、どんなに悲しい思いをされたことだろう。

 あの写真のお嬢さんは今どうしておられるだろうか。60年以上昔のことだから、還暦をとうに過ぎておられるはず。もしもお目にかかる機会が得られたなら、父上のことを詳しくお話しして上げたいと切に思うこの頃である。
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by 1937-1945 | 2007-08-16 14:30 | 第5話 心優しい反戦論者の最期

第4話 「住職」柱松大尉と、捕虜になった5人の若者   

 
 昭和15年2月頃から、特務機関は淮南に出張所を置く事になり、私も初めて現地班を体験した。

 淮南地区警備隊長だった柱松大尉は僧侶で、東北地方の寺の住職だった。彼は無益な殺生を嫌い、捕虜は2~3日留置したあと、

「二度と兵隊になるな。故郷に帰って百姓をしろ」

と言い聞かせては釈放していた。

 昭和16年頃だったろうか、四川省出身の若い兵士5人が日本軍の捕虜になった。四川省の強い訛りを話す彼らは、中国軍の仲間からも田舎者だといじめられ、5人だけで行動していたところ捕虜になったらしい。しかし、郷里があまりにも遠すぎて、帰す訳にもいかない。

 そこで我々の特務機関で面倒を見てくれないかと、柱松大尉から頼まれた。守衛に雇ったが、彼らは呑気な若者達で、僅かな小遣いを貰うと博打を打ちに行く。残飯で鶏を飼い、小遣いを稼いだりもしていた。

 やがて私は転勤になったので彼等のその後はわからない。

 後年パンダで有名になった四川省に、はるばる帰る事が出来ただろうか。
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by 1937-1945 | 2007-08-16 14:18 | 第4話 住職と捕虜の話

ブログ版にあたって 中谷久子   


 疎遠になっていた兄が昔のことを話してくれるようになったのは、6年前からのことです。81歳でようやく職を辞した兄と会えるようになったとき、70歳の私は、まだおぼつかない手つきでパソコンに、通信制中学のスクーリングのノートを整理していました。

 兄の戦争体験は、兵隊さんとは全く異なる珍妙なもので、裏側から見た戦争の姿を多くの人に読んで欲しいと思いましたが、当時の私にホームページを立ち上げたり、ブログを開くなど思いも寄らない事でした。

 それでも兄の話を覚えたてのワードに打ち込んでは、兄の話に共感してくださった山上郁海さんに送っておりました。それを彼女がホームページにまとめて下さって、多くの方の目に触れる事が出来ました。それから3年、何人かの読者の方から思いがけず感想文をいただいたり、研究者の方から更に詳しい情報を教えて欲しいと依頼されたり、過去の戦争や反戦に関心の高い多くの方と知り合うことができるなど、うれしい出来事がたくさんありました。インターネットの力には、ただただ驚くばかりです。

 山上さんを通じて、フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ・プロジェクト「BRIDGE FOR PEACE(ブリッジ・フォー・ピース)」の活動をしている神直子さんとも知り合う事ができ、彼女は兄と若い人をつなぐ話の場を設けてくださいました。
※神さんのホームページ(http://blog.bridgeforpeace.jp)

 やがて私もブログの作り方を山上さんのお友達から教わって、2005年10月『七十代万歳!』というブログを開くことが出来ました。

 我が家の歴史を百年前の写真入りで連載したり、戦時下の馬鹿馬鹿しい体験を書きまくったり、日常のひとコマや、花や風景の写真などを掲載したりしておりま
す。

 ブログを始めた事から、東北、北海道、京都などに沢山のお仲間が出来て、居ながらにして各地の風景や、祭りや、珍しい食材など見せていただきながら、『平和を護らなくちゃ』などと語り合っております。また、去年東京から埼玉に移住し、新しい町で、子供たちに昔語りを聴かせるグループに入れて頂き、目下昔話の暗記に熱中しておりまして、その様子もブログで報告したりしております。

 そんな折、山上さんから「『日中戦争の中の青春』をブログ形式で作り直してみたい」と言っていただきました。わたしがブログに慣れ親しんでいる事や、更新をするのに手間がかかるホームページよりもブログのほうが簡単で、人とも繋がりやすくなるとのこと。兄も私も喜んで賛成した次第です。

 ホームページ同様、今後も多くの方のお目に触れ、戦争について考えるひとつの窓になれたら幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。
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by 1937-1945 | 2007-08-15 22:49 | ブログ版にあたって 中谷久子

お便り・ご意見をお待ちしております。   


このブログを訪れてくださった皆様、本当にありがとうございます。
8月15日に始めたばかりで、まだ未完成ですが、少しずつアップしていく予定です。

エキサイト・ブログの方は、コメント欄に足跡を残して頂けたら嬉しいです。

お使いのコンピュータで、コメント欄が表示されない方、ご意見、ご感想、アドバイス等がありましたら、ぜひ、メールをご利用下さい。

☆yamagamiinfo☆@yahoo.co.jp

メールをお送りくださるときは、お手数ですが、上記アドレスから、星印を二個ともはずしてからお送りください。

忌憚なきご意見を、お待ちしております。 
どうぞよろしくお願い申し上げます。         
                               山上郁海
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by 1937-1945 | 2007-08-15 22:16 | お便り・ご意見

第3話 弾丸の洗礼   

 
 管内に大きな作戦があると、特務機関は工作班を編成して参加していた。作戦部隊の裏方としてわたしたちが請け負った任務は、占領地の行政復活、警察再編による治安維持、学校の再開、治安情報収集。主力部隊が引き揚げた後も残留するのが通例であった。

 生来好奇心旺盛な私は、一度戦闘の場を体験したいと思っていた。

 昭和14年11月の寿県作戦を知って、新米でも行かせてくれるだろうかと恐る恐る上司に希望を伝えると、

「おお、行ってくれるか。大変だが頼むぞ」

 意外にもあっさり言われた。 

 本部に勤務していれば個室に寝て、食堂で飯を食い、毎日風呂に入ってと、内地と変わらぬ安穏な生活が保証されていた。危険な戦闘に出ても出なくても、戦時手当てがついて、給料は内地勤務の2倍以上になる。内地で初任給が40円足らずだった時代に、私は84円も支給されていた。そんなわけで、誰も危険で苦しい作戦の現場には行きたがらない。5名編成の工作班に各部署から1名づつ指名するのは上司にとって、苦労なことだったのである。

 この夏は前年の中国軍の破壊活動による黄河堤防決壊の影響で、淮河が大洪水に見まわれ11月になっても水が引かなかったので、寿県作戦は、舟艇部隊だけの水上作戦となった。

 陸軍の舟艇は長さ6~7メートルの頑丈な木造船に、農業用のヤンマーエンジンを取り付け、スクリューに直結した簡単な物で、通称ヤンマー船と称していた。関西の部隊の船はダイハツのエンジンを用いて、ダイハツ艇と呼んでいたらしい。

この攻略戦は、砲兵隊と野砲、速射砲も積んだ数十隻の船団からなる独立混成旅団の作戦で、特務工作班も1隻に乗り込んだ。

 事前の情報では、今回は戦闘を回避できるだろう、とのことだった。

 特務機関の吉川班長が、密使を出して寿県城内の敵と連絡を取っており、日本軍到着と同時に帰順し、日本が設立した南京維新政府軍に参加する(寝返る)という密約が出来ていたからである。

 日本軍が近付いた時、北門に維新政府の五色旗を掲げて迎え入れる手筈になっていた。

 しかし、この日(昭和14年11月5日)正午前、帰順交渉に当たった特務工作班の艇が先頭に立ち1000メートルに近付いても、五色旗は上がらない。6~700メートル付近で、後方の指令艇が赤旗を振っているのに気付いた。艇長がエンジンを絞ると、いきなり猛烈な銃声。水面を、機関銃弾の水柱が走っているではないか。

 間もなく味方の舟艇が展開し、総攻撃が始まった。

 すぐ後の速射砲の轟音が凄まじい。

 我々工作班は用が無くなったので、舟底に伏せ時々覗き見る。門外2~300メートルに迫ると、敵は一斉に退却した。洪水の為、北門の際まで冠水している。逆光線に見る北門はさながら水面に浮かぶ竜宮城のようだ。

 その時、無人と思われた北門右側の城壁上に、突如、敵の将校が上半身を表わし、眼下に迫る日本軍を睥睨していた。

 一同、あっけに取られた瞬間だった。数秒間のことではあったが、その度胸には驚いた。

城門を開けて突入したが、その間に敵は全員南門から逃れたとみえ、捕虜は発生しなかった。

 工作班には一つの任務が有った。

 前年の漢口攻略戦において、大別山方面で捕虜になり、寿県城内に収容されていた日本兵1名を保護するように命じられていたのだ。

 状況は厳しいが監獄のある県政府に直行した。

 しかし誰も居ない。鉄の錘の付いた足枷が幾つか転がって居るだけだった。

 捕虜北山一等兵は、日本軍接近と同時に処刑されていたと、後日判明した。

 ところで、なぜ、帰順の密約が破られたのだろうか。

 攻撃の3日前、日本軍に帰順予定の部隊は突然排除され、抗日意識旺盛な部隊と入れ替わっていたのである。

 密約が漏れたのであろう。

 3日前に蚌埠を出発した我々には全くその情報が掴めていなかったのだ。お蔭で私は希望通り、たっぷりと弾丸の飛び交う中に身をさらすことになったのである。

 
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by 1937-1945 | 2007-08-15 20:03 | 第3話 弾丸の洗礼