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ブログ版にあたって ~ 中谷孝氏をめぐる時代背景   

ブログ版にあたって
「中谷孝氏をめぐる時代背景」


 「日中戦争の中の青春」というホームページを立ち上げてから、早くも3年が過ぎ、本ブログの主人公中谷孝さんは、今年8月3日で87歳を迎えました。私自身はスペイン在住であり、日中・太平洋戦争を風化させまいと語り継いでいる多くのグループとの交流もないまま、「ちゃんと読まれるかしら?」という疑問を頭の片隅にうかべつつ、ホームページを起こしたのでした。

 ところがわたしや中谷さんの心配をよそに多くの方がホームページを訪れてくださり、戦争を語り継ぐ大勢の若い方々や、平和活動している方々とも出会うことができました。かれらに励まされ、中谷さんはつぎつぎと思い出を文章に原稿用紙にしたため、わたしに送ってくれました。厚い原稿用紙の束を更新したり、一篇の記事に思い出を追加したりするには、ホームページでは手がかかりすぎることから、更新がしやすく、ハイパーリンクが簡単でトラックバック機能も充実しているブログの利用を中谷さんの妹久子さんに提案。私自身、日中戦争について調べていくうちに、追加したい状況説明や話題がたくさん出てきましたことや、久子さんもブログを楽しんでおられることから、ブログを利用しようということになりました。

 せっかくの更新ですので、ここで、あらたに時代背景について触れたいと思います。

 中谷さんは1920年生まれ。1920年代といえば、ヨーロッパではすでに画家モディリアーニやクリムトの絵が世に送り出され、アールデコの建築様式が流行し、音楽ではエリック・サティが活躍した時代です。ロマンチックなイメージが漂いますが、その頃欧州では、1914年に始まり1918年に終わったことから「14-18」と呼ばれる第1次世界大戦で、身にも心にも深い傷を負った人々で溢れていました。またその頃、周恩来や鄧小平がパリに留学に来ており、共産党や社会主義の活動に燃えていました。

 中国では、1911年に孫文が辛亥革命を起こし、1912年、中華民国が成立。それを受けて「ラスト・エンペラー」として有名な清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が退位します。1921年に中国共産党が創党され、1927年、孫文の後を継いで蒋介石が国民党の主導権を握ります。この年、日本では、「ただぼんやりした不安」を理由に、芥川龍之介が自殺しています。日本は、1932年、満州国を建国。そして、日本の傀儡政権といわれた汪兆銘の南京国民政府が1940年に擁立されました。

 その100年前に起きたアヘン戦争の倦怠感がまだ残る上海では、イギリス租界、アメリカ租界、そしてフランス租界で、当時の最新ファッションに身を包んだ男女がワイングラスや煙管を片手に、盧溝橋事件の真犯人が誰か、あるいは、南京での大虐殺と首都南京を捨て重慶に移った蒋介石という男について、夜通し論議をしていたかもしれません。
1939年、商社に採用された中谷さんは、そんな時代の上海の土を踏みます。それが数奇な運命をたどる第一歩になりました。汪兆銘の南京国民政府を擁立しその軍を帰順させようとしていた中支派遣陸軍特務機関から、スカウトされたのです。

 戦後、エンジニアとして第一線で活躍し、定年を過ぎても尚会社から必要とされ続けた中谷さんは、理系人間。抜群の記憶力で記述は詳細な上、冷静な筆致で状況を淡々と綴っています。その手記には、ガダルカナルや硫黄島など、太平洋戦争の激戦地で起きたような悲惨極まりない話はあまり出てきません。中国で活動する特務機関員という特異な立場であったことで、戦争に関する話に際してもあまり聞くことのない一面を伝えてくれます。

 たとえば、大虐殺があったとは知らずに訪れた南京で、土饅頭の上を自転車で走っていたら野犬に囲まれた話。軍部の将校が、日本人の経営する料亭で女将と仲良くなった話。当たり前のように存在していた慰安婦の話。慰安婦には日本女性もいたといいます。軍馬や軍犬の悲しい運命。涙を流す心優しい兵士、鬼と呼ばれ恐れられた上官。帰順した南京国民政府の兵士たちに依頼した日本軍救出作戦……。

 砲弾飛び交う戦場では裏切りを見、捕虜の処理現場には立会い、地雷で大怪我を負うという経験に加え、全世界の華僑に向けて発信される短波の重慶放送を傍受する仕事では部隊長にさえ告げてはならぬ極秘情報にも接するなど、大本営が隠し続けた戦況を理解していた中谷さんには、日中戦争の本質が見えていたのかもしれません。中国人と日本人の間を注意深く渡りながら難局を乗り切り、時には中国人とも友情を育み、互いに助け合いながら生き抜こうとした中支派遣陸軍特務機関の知恵や人間的な姿には、癒しさえ感じます。

 当時、日本軍は劣勢を『優勢』に、敗北を『転進』にと、修辞法を駆使しウソにウソを塗り固めていたことが、多くの書物やドキュメンタリー番組で明らかにされています。兵士の大半は餓死、あるいはマラリアなどによる病死。戦いに来たのに、戦う前に食べ物もなく乞食同然となったわが身を嘆き、「何のためにここに来て死ぬのか?」と自答する人も多かったそうです。戦う前に軍人が餓えて死ぬ戦争なんて、前代未聞です。

 中谷さんは、出陣した友人のほとんどを失いました。悔しさや愚かしさから戦争の意味を今でも自問しています。明治時代からの出来事を細かく記した手書きの年表を常に携帯し、お会いするたびに、厳しく時代と自己を問いただし、日中・太平洋戦争の論理やシステムを平易に解き明かそうとしてくれます。

 その一方でホームページの中の文章がやさしいのは、甲も乙もつけることのできない青春を、一生懸命生きた証だからだと思います。ブログにすることで、これらの手記や新たな原稿を随時掲載できるようになり、嬉しく思います。一人でも多くの方に読んでいただき、戦争を考えるときの素材のひとつにしていただければ、光栄です。

山上郁海          

by 1937-1945 | 2007-08-15 17:41 | ブログ版にあたって 山上郁海

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