【これまでの記事から・1】 69年前の南京   

(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
ちょうど70年前の今頃、南京の街は悲惨で異常な状態であったのではないかと想像します。中谷さんはこの約1年後に南京に初めて足を踏み入れるのですが、その時の状況を語ったインタビューをもとにした日刊ベリタの記事がありますので、その一部、中谷さんが南京に入った経緯と当時の南京の様子を紹介させてください。南京事件が起きるのは、赤紙による徴兵が始まるずっと前だったので、当時の学生や社会の雰囲気が伝わるのではと思います。山上)

「日本軍は中国で何をしたのか 
元陸軍特務機関員・中谷孝氏の証言<1>」



▽運転免許証が変えた運命 
 
 中谷さんが、上海に本店のある日系貿易会社に請われて、海を渡ったのは昭和14年(1939年)2月。大正3(1920)年8月3日生まれの中谷さんは、当時18歳だった。 
 
 中谷さんは府立一商(現都立一商)に入学したが、実は、そろばんや簿記が苦手。興味の対象はもっぱら車やエンジンだった。にもかかわらず商業学校に進学したのは、当時、7人に1人しか受からなかった商業学校のほうが、行きたかった工業学校(合格率は4人に1人)よりも優秀だと先生や親に言われたためだ。しぶしぶ承諾したものの、工業学校への思いは断ち切れず、内緒で車の試験を受けたら合格。16歳のときだった。 
 
 当時、そんなに若くして小型自動車の免許を取った者はおろか、免許をもっていること自体が珍しい時代だった。授業料は覚えていないが、免許交付時には、警視庁に赴き、交付手数料1円50銭を支払った。ほぼ大人の男の労働賃金一日分に当たるという。女性の労賃は80銭だった。
750ccのオートバイにも乗れる特殊免許はまだ持っていなかったがそれにも挑戦したいと考え、練習もしていたほどだった。だがこの「免許」が、中谷さんの人生を大きく動かすことになろうとは、そのときは彼自身、夢にも思わなかったであろう。 
 
 当時はまだ、国際都市上海に渡り、商社を起すことが多くの人々の夢であり、そのために商科学校に人気の集まっていた時代だったという。上海には日本人租界虹口(ホンコウ)があり、その南側にあるイギリス租界、フランス租界とともに大いに賑わっていた。 
 
 自動車免許の取得は、昭和11年頃までは、商科の学生はあまり奨励されなかったが、翌年、中国との戦争が始まり、運転手が足りなくなると、商業学校の学生も免許を取ることが奨励されるようになり、中谷さんの後輩も免許を取る者たちが増え始めたという。 
 
 商業学校を卒業したものの自動車技師としての夢の捨てきれなかった中谷さんは、昭和13年、太田自動車製作所に入社した。面談で、社長に「自動車は好きか?」と問われ、「はい、小型免許を持っています」と答えたところ、「そうか!」という一声で採用が決定したという。
当時、日本の自動車産業界では、ベアリングはスウェーデンか米国からの輸入品に頼っていたが、米国の圧力でスウェーデンからのベアリングが届かなくなり、半年後に就職先の自動車生産が停止するという事態に陥った。やむなく離職しようとする中谷さんのところに、上海に本店のある日系商社から、武漢(漢口)支店に就職しないかと話が舞い込んだ。 
 
 この会社は、戦況が悪化しつつあったため、日本に一時的に避難していたが、現地での営業を再開するために、赴任してくれる職員を募集していたのだ。中谷さんは、この話に飛びついた。 
 
 昭和14年2月、船で上海の上陸したが、赴任先は漢口ではなく、蕪湖(ウーフー)だと告げられた。そこで、日本人租界・虹口の繁栄ぶりを眺めながら、赴任先の蕪湖への旅路に着く。上海の本社では、途中立ち寄る南京に着いたら商社を経営している知人を訪れるようにといわれ、南京にまず向かった。南京大虐殺が起きたとされる昭和12年(1937年)12月から、1年2ヶ月後のことであった。 
 
▽ものさみしげな南京の街 
 
 中谷さんは、そのときの印象をこう語る。

「南京の城壁の内側は、焼けたり崩れたり、荒れ果てた感じがしました。空き地だらけで、人影もまばらでしたね。ほかの街に比べてずっと寂れているような、暗い印象を持ちました。中国人も少しはいましたが、日本兵におびえているようでした。これらの中国人は、城壁内で店を構えていたり、百姓であったり。城壁内にも畑はありましたから」 
 
 街の中心には、広く立派な幹線道路が敷かれていた。南京大虐殺が起こる直前までここは中国国民党の蒋介石を総督とする南京政府の首都であり、蒋介石が、非常時には滑走路に使えるようにと造らせたのである。中谷さんが滞在した商社員の自宅は、この幹線沿いに面していた。人影もまばらな南京に商社を構えたこの商社員は、大正時代から南京で日本の雑貨を売っており、目抜き通りに看板をかけていた。

街の見物をしようと、中谷さんはここで自転車を借り、探索に繰り出した。幹線沿いの目抜き通りの裏には、小さめの裏道が何本もあったが、それを過ぎると、空き地が目立った。豚や山羊などの家畜も見受けられた。 
 
 空き地には、いくつもの土饅頭があり、自転車でその上を走ったら、20頭近い野犬に囲まれた。しかしそのときはまだ、この土饅頭が何であるのか、中谷さんは知らなかった。草など生えていない、こんもりした土の山であった。 
 
▽中国人苦力(クーリー)と日本人商社マンの暴力 
 
 うすらさみしい南京の街を去り、揚子江を120キロも遡って、蕪湖(ウーフー)に着任すると、さっそく中谷さんは、マッチ、タバコ、砂糖、塩、布地、上海方面の日本人租界に送る米などの出し入れを管理する役目についた。
ところが、そこで毎日目にしたものは、酷使される中国人労働者の姿と日本人商社員の横柄な態度であった。大陸の流通は日本軍が押さえていた。軍の許可する日本の商社名があれば、流通は許された。軍の許可証を手に入れるために、日本の商社は連夜、軍をもてなした。この許可証で、多くの利益を得た者もいた。 
 
 中国商社は、日本の商社の下でなければ働けなかった。日本の商社マンは、中国人労働者に容赦なく鞭を振るうこともたびたびあった。そんな姿に耐え切れず、食事のときなどに、中谷さんは先輩社員に不満を漏らすと、「日本は勝っているんだぞ。日本が何をしようと勝ってだ」といわれ、取り付く島などなかったという。 

*記事の転載については日刊ベリタに了承を取ってあります。
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# by 1937-1945 | 2008-01-08 21:29 | 【これまでの記事から】